Powr.io content is not displayed due to your current cookie settings. Click on the cookie policy (functional and marketing) to agree to the Powr.io cookie policy and view the content. You can find out more about this in the Powr.io privacy policy.

~ 室町から戦国にかけて備中守護細川氏重臣として活躍した赤澤一族のルーツをたどる~

 このHPは、管理人・zawaが、自らの先祖である備中赤澤家を素人目ながら考察するとともに、それに関わる郷土の歴史や他の関連する一族なども調査していきます。

【TOP画像は森本松山城跡】

 

 

 はっきり言いまして、かな~~~りマニアックです。

 

 同姓の方、地元に近い方、それと濃ゆい歴史の好きな方くらいしか楽しめないかもしれませんが、ちらっとでも見ていっていただければ幸いですm(_ _)m

 

 

 また、読破した主な歴史小説についても、独断と偏見ながらレビューしていきます。個人的なランキング付けもしていきたいと考えています♪



 2015.9.26 2年ぶりの更新です(汗)

 戦国時代の細川通薫の戦いを書いていきます。

 概要は作りましたので、ボチボチ記事を増やしていきたいと思います~(^^)

 

 

更新履歴

2012.  8.11  HP開設

2012.11.  1  「赤澤氏とは」、「備中赤澤氏について」を更新

2012.11.  4  「お問合せ」新設、 「備中赤澤氏について」を更新

2012.12.  1  TOPページを更新

2012.12. 10   読破本「司馬遼太郎」を更新

2013.  2.23  玉島・浅口の歴史「源平水島合戦」を更新

2013.  5.  3  「源平水島合戦」に2項目追加

2015.  9.26  玉島・浅口の歴史「中国兵乱記(玉島合戦)」の概要を更新

2022.  1.30  細かい部分の修正

森本松山城

 わが祖先と思われる赤澤修理亮が応仁年間に鴨山城主細川氏の重臣として住んでいたといわれ、いわば赤澤家の居城といっていい城。
 ちなみにこの赤澤修理亮という人物と同一かどうかは不明ながら、赤澤左馬祐宗春という人物もこの城の城主となり、その後、その子・五郎四郎宗照、さらに孫の兵庫祐宗栄と3代の間、森本松山城主となっている。

 

【写真は円通寺から城跡を写したもの】

(中央手前の樹木の繁った小高い山が森本松山城跡。その中央部を貫くように、現在、水玉ブリッジラインが通っている。)

 

 

「備中集成誌」の森本松山城によれば

「建武年中藤田小次郎住して、薬師寺公義に与力する。小次郎は新田義貞十六騎党、藤田三郎左衛門が弟なりという。応仁年中鴨方細川氏の重臣、赤澤修理亮住す。その本国は信州なり。」

とある。

 

※ 右の画像は屋形があったと言われている場所。今は畑になっている。

また、「倉敷市史 第2巻 古代・中世」によれば(以下抜粋)

 玉島柏島字満所の海に面した丘陵上に所在する。近世の地誌には城主として、南北朝時代・藤田小次郎、応仁年中鴨方細川氏方赤澤修理亮の名が記されている。

 また伝承では、寿永2年(1183年)水島合戦の際平氏軍の陣地になったとされ、現在城の一角に「源平合戦水島古戦場」の碑が建てられている。天文18年11月26日付細川通頼書下写(市史366)から、同年同月15日「柏島政所」で合戦があったことが判明する。この文書中の「政所」と森本松山城の所在地の小字名「満所」の読みが同じことから、「柏島政所」は森本松山城に比定できよう。

 現在、城域周辺は畑化され、さらに丘陵の中央付近を水玉ブリッジラインが貫通しており、遺構はかなり破壊されている。しかし、分断された最高所の曲輪の一部には土塁が残存している。特に、南側の土塁には、横矢を効かせるための折れや張り出しが設けられている。このような横矢が中世の城に再度取り入れられるのは戦国時代に入ってからと考えられており、現在の城の遺構も源平当時のものではなく戦国期のものであろう。

 とあり、最初の記述はおそらく集成誌から抜粋したものと思われるが、中盤の部分では、源平水島合戦で平家の陣地になったとされている。しかし、この頃はおそらく城といったものはなく、ただ丘陵(または小島)に一時的に陣を張っただけだった、と解釈できる。

(源平水島合戦については別に詳細に検証する。「玉島・浅口の歴史」へ)

 

※ 上の画像

城の一角にある、「源平合戦水島古戦場」の碑

敷地内には他にも、「祇園精舎の・・・」で始まる碑文もある。