中国兵乱記(玉島合戦)

 毛利家に居城・月山富田城を落とされた尼子家は没落していた。

 しかし元亀元年から2年(1570~71年)、山中鹿之助幸盛ら尼子家旧臣が新当主・尼子勝久を擁して出雲で反攻を開始した。

 その戦略の一環として、毛利の九州討伐の遠征のため手薄になっていた毛利方の備中に尼子勢数千が攻め入り、浅口郡を領していた毛利方の細川下野守通薫と戦い、これを破った。

 概略

とき:1571年2月

場所:備中国浅口郡玉島および片島付近

 

細川勢

兵 力:2千余(侍150騎、雑兵2,000余)    

本 陣:浅口市鴨方町杉山城 など

武 将:細川下野守通薫(生還)、赤澤五郎四郎宗照?(戦死?)

    中塚二郎兵衛季繿(戦死)、中塚治左衛門季信(戦死)

損 害:甚大

 

尼子勢

兵 力:7千余

本 陣:倉敷市玉島 など

武 将:尼子吏部(生還)、尼子刑部(生還)、大賀駿河守(生還)

    庄伊豆守高資(生還)、庄兵部大夫(生還)、植木下総守(生還)

    津々加賀守(戦死?)、福井孫左衛門(戦死)

損 害:不明(軽微)

 元亀2年(1571年)、尼子家再興のため、尼子勝久や山中鹿之助幸盛らが出雲で蜂起して、毛利の諸城を攻撃していた。

 打倒毛利の一環として、九州討伐により兵力の手薄な備中に目を向け、尼子吏部らが数千の兵を率いて攻め込んできた。

 毛利方の庄伊豆守高資らも抵抗したものの尼子方に降伏し、先手となって毛利従属の細川領に押し寄せた。その数7千。

 対する細川勢はわずか2千。

 尼子勢は細川勢の城を2、3攻略し、細川通薫のいる鴨方杉山城にせまった。

 細川勢は、杉山城から倉敷の片島まで撃って出て、要害を背に戦うも敗れ、敗残兵は総社幸山城に逃げ込んだ。

 そこで抵抗を続けるうちに、毛利元就の4男・毛利元清が8千の兵を連れて反撃し、尼子勢は出雲まで退却した。