赤澤氏とは

 武家氏族の一つ。清和源氏小笠原長経の二男清経が、赤澤山城守の譲りを受けて伊豆国赤沢郷を領して赤澤氏を称したことに始まる、と言われている。

 

 下の図は、清和天皇から赤澤氏初代の赤澤清経とその3代子孫の長興までの系譜である。小笠原家からも比較的早く分かれていて、初代・清経は源氏の嫡流からもそれほど離れていないのがわかる。

 

 

 先に述べたように、小笠原長経の子として赤澤郷を領して赤澤氏を称したというのが定説ながら、「尊卑分脈」(室町初期1395年あたりに完成?)には、小笠原長経の子の中に赤澤清経の名は見えない。この「尊卑分脈」は当時を知る資料としては一級資料といって過言ではなく、ここに載っていないということは、この清経初代説に疑問符が生じる。
 この下の画像は「尊卑分脈」の小笠原氏の項の抜粋である。これを見ていただければ、長経(一番右に表示)の子に清経がないことが確認できる(子は長房、長忠、長時、隆氏、長能、長貫、盛長、長村、観照と表示)
 さらに長氏の子として赤澤氏の養子となったとされる長興の名前も見当たらない。これだけを見ると、長経の子としての赤澤清経は疑わしいどころか、その3代子孫の長興まで存在しなかったとなると、赤澤系図は創作と言われても反論はできないことになってしまう。
 ただ、長興について述べれば養子に入った時に改名したとも充分考えられる。ちなみに、この長興は、経氏であるという資料があるらしく(小笠原系図:未確認)、この経氏はこの系譜の長氏の子の一番下に見える。この注釈として「津毛次郎四郎、観照之子」とある。この観照は先に確認した長経の末子(?)に当たると思われるが、赤澤氏との接点は見当たらない。ちなみに小笠原系図ではこの観照之子の後に「此代赤沢」との記述があるらしい。

 これらの点だけを見ても、確たる証拠がなく本当に赤澤清経という人物が存在したのかさえもわからない。

 

 

 清経について、長経の子に清経が見えないと述べてきたがよく目を凝らしてみてみると、長経の父・長清のあまたの子の中に清経の名前を発見できる。(行長、清時、行正、清澄、長隆、の後ろに清経の名)系譜を見ると、かなり後ろの方でありその前が鳴海余一清時、大蔵与二清澄(大倉余一長隆と同一人物)であるため清経の前には「余三」があてはまる可能性が高く、すなわち長清の十三男と解釈できる。
 長清の晩年の子といってよく嫡流の長経よりもだいぶ年が離れていたと思われるため、この「尊卑分脈」を尊重し、なおかつ、一般的に言われている長経の子(第二子?)ということを考慮すれば長経が弟である清経を養子とした、と考えるのがしっくりくる。
 ここまで、何とか清経までたどりついたのだが、この清経以後の子孫がまたこの「尊卑分脈」には載っていない。
 先ほどから述べているように、清経から3代子孫は本家の小笠原長氏の子の長興(氏経、経氏?)である、となっているがこの長興(経氏)という人物は「尊卑分脈」に長氏の子として載っていることは載っている。
 しかし、世代的にみると2世代離れており(観照の子とすれば長経の孫、長氏の子とすれば長経の玄孫)、他の人物と混同している可能性も否めない。



 ただ、この後の時代の系譜などに比べれば、ある程度しっかりとしている背景はあるわけで、長清系なのか長経系なのか長氏系なのかははっきりとしないが、赤澤氏の祖先は、小笠原分流だということは可能性が高いとみてよいと思う。