備中赤澤氏

 基本的に、赤澤氏は清和源氏小笠原流であることから、その本家と支族が領有した信濃、阿波、讃岐、備中などに子孫が多いと言われている。

 ちなみに私(赤澤)の住んでいるところは備中の南部にあり、周囲に赤澤姓を名乗る世帯も多い。その備中赤澤家のルーツをさぐっていこうと思う。

 

家紋

 清和源氏小笠原氏系の家紋は、上の画像左の三階菱が多く使われていて、備中赤澤氏の家紋も幾流があるが、三階菱や丸に三階菱が多く使用されている。単純に家紋だけみると、小笠原流とみて差し支えないと思われる(当家は画像右の丸に三階菱)。

 ちなみに小笠原氏の祖は小笠原長清で、その父は甲斐源氏武田氏初代武田信義の弟加賀美遠光であり、武田氏とも親類になる。そのため、小笠原氏も武田氏も菱紋を使用し、そのあまたの庶流も菱をつかった家紋が多くみられる。

余談だが、武田氏の後裔(諸説あり)を称する三菱の創始者・岩崎弥太郎がその家紋を開いて、今の三菱のマークにしたことは有名である。

 

赤澤氏の嫡流

 備中の赤澤氏考察の前に赤澤氏嫡流の簡単なまとめをしておく。

 

 赤澤郷を領し、赤澤姓を初めて名乗ったとされる赤澤(小笠原)清経以降、小笠原一族として1300年代~1400年代にかけての南北朝の争乱期等では、小笠原氏に従い信濃で勢力を拡大する一方で、中央にも進出している。1500年前後には、赤澤朝経入道宗益が管領・細川政元に仕え、近畿数カ国の守護代を務めるなど重臣として活躍したが、政元が政敵・細川澄之に暗殺されると同時に起こった国人一揆により敗死している。その養子の長経も澄之方の細川高国と戦い、捕えられて斬られている。嫡子・政経は、河内国高屋城を守備していたが、破れて信濃に逃げ戻った。さらに政経の子・経智は小笠原長時に属して、武田信玄と戦うも破れ、上杉、葦名、三好と放浪した長時とともに諸国を流浪する。一族の中には、武田家に仕えたものもあったが、武田家滅亡後は復興した小笠原貞慶に仕えるも、謀反を起こし、信濃に残った赤澤氏は滅亡した。

 一方、長時の流浪時代から仕えていた経智の子・貞経は、弓道師範として徳川家康に米5百俵の御家人として召され、幕府の弓道師範として後年まで続く。しかし、この時に小笠原姓に復帰し、赤澤小笠原氏となった。

 

備中赤澤氏とは

 備中(特に南部の玉島地方)に赤澤氏は多いのだが、この発祥が信濃(正確には伊豆)の赤澤氏がどうやってこの備中地方に来たのか、というのは諸説あり定かでない。つまり有力な資料はなく、個々に残る古文書や家系図などの類をつぎはぎして、おぼろげながら形を作っていかないといけない。仮説を立てて、その様々な可能性をさぐっていきたいと思う。

 

① 細川氏家臣としての入国

 備中浅口郡分郡守護として赴任した細川満国の家臣として備中入りし、そのまま土着した説。

 この説が一番可能性が高いと思われる。

 満国(細川野洲家の祖)は、幕府管領・細川頼元(細川頼春の子、頼之の弟(養子))の子で、備中浅口郡及び伊予宇摩郡の分郡守護になるとともに、浅口市鴨方に鴨山城を築き(1407年)現在の浅口市や倉敷市玉島地方周辺を治めた。その時に、中央から細川被官として赤澤氏が追従してきたのではないかといわれている。細川氏と赤澤氏はともに清和源氏の出で、加賀美遠光を祖とする小笠原氏一族の赤澤氏は、足利氏にも血筋はある程度近い。その縁で、足利尊氏が中央を掌握した後で、信濃方面にいた赤澤氏が足利氏一族の細川氏に仕えたというのも無理はない。残念ながら、この時点での満国随従の家臣の名前はわからない。

 ここで、信濃に目を転じてみると、細川満国が鴨山に入城する年よりも7年前(1400年)に「大塔合戦」と呼ばれる、信濃守護・小笠原長秀とその与党の守護代・赤澤満経に対抗した村上満信率いる国人衆の反乱が起こっている。この戦いは守護勢四千、国人衆一万余であり、国人衆の大軍勢に圧倒された守護勢は大塔砦と塩崎城に立て篭もるも、壊滅し満経の弟とされる赤澤駿河守らが討ち死にしている。その時に、守護の長秀は京都に逃亡し、一時的に在住している。その後、小笠原氏が信濃守護に返り咲くのは、応永23年(1416年)の「上杉禅秀の乱」で功をたてた小笠原長基の三男の政康(長秀の弟)までかかることから、この16年間(1400~1416年)は小笠原・赤澤一族が京都(あるいはその周辺)に在住していた可能性が高い。この京に在住していた間に、細川家に接近して被官となったのではないか。満国が備中分郡守護として現地入りする際に、京で信頼できる人材を募集したとも考えられる。その中に同族(といっても遠いが)の赤澤氏がいたのではないか。

 また、この長秀系以外の小笠原氏でも、長秀の曽祖父の貞宗の弟の貞長を祖とする京都小笠原氏があり足利将軍の近習を務めている(この後裔に、関ヶ原の時に細川家に仕え、忠興夫人の細川ガラシャの介錯をした小笠原秀清(少斎)などがいる)。細川満国が鴨山城に入城した年にも当然京都小笠原氏は続いており(当時の当主は備前守氏長または満長)、その一族の赤澤氏が同じ幕臣の細川家臣となっても不思議ではない。ただ、こちらの京都小笠原氏に従っていた赤澤一族がいるのかどうかは文献がないので不明である。

 

 時代は少し下って鴨山城入城後になるが、「醍醐寺文書」の中に、応永19年(1412年)に和泉の国の寺社領を押領している和泉下守護・細川阿波守基之(満之の子・頼春の孫)の奏者として赤澤三郎なるものが寺社領を返還する使者にたった旨が読み取れる。この場合の奏者は、有力な被官が務める場合が多く、室町も早い時期から細川家の家臣として活躍していたらしい。この時点で初めて、細川家臣の中に赤澤氏の名前は見えるわけではあるが、上で述べたように奏者は重臣の一人と言っても過言ではなく、いきなりパッと出で奏者になったとは考えにくい。そのため、少なくともこの年よりも5年前には細川氏に赤澤氏が仕えていた可能性は高い。と考えれば、小笠原貞長(1330年代頃京に居住?)に従った赤澤氏あるいは大塔合戦で信濃より逃げ帰った長秀に従った赤澤氏が京に居住してから、1407年までの間に細川家家臣団に加わったと考えても違和感はない。

 さらに、細川右馬頭持賢(1441年生・満元の子・満国の甥・細川典厩家の祖)に仕えた赤澤三郎四郎朝宗という人物もあり、年代的には細川満国が鴨山に入城したより5、60年後の時代の人物とみられる。前述の赤澤三郎との時代格差も3、40年ほどあり、この「赤澤三郎」が同一人物かどうかはわからない。ただ、この典厩家は、本家である京兆家(管領家)を補佐する立場にあり、所領も摂津の一部を治めていた関係上、主に近畿圏で活動していたため、和泉下守護被官である赤澤氏となんらかの関係があっても不思議ではない。

 また、野洲家も典厩家と同様、京兆家を補佐する立場にあり、幕政に深く関与していたため近畿圏で活動することが多く、おそらく代々の野洲家当主は所領である備中や伊予にいるより京の近くにいることが多かったのではないか。

 そのことは、未確認ながら赤澤家の当主(赤澤左馬祐宗春?)が将軍・足利義晴を擁した京兆家当主である細川高国に従い「桂川合戦・1527年」(細川高国 対 細川晴元・三好元長・柳本賢治(波多野稙通の弟)ら)で戦死したという文献もある(らしい)。ただ、この赤澤宗春は謎の多い人物で、「浅口郡誌」などによれば、赤澤宗照(後述)の一代上(父?)と表記されているが、この郡誌の作者ですら仮盲の可能性が高いと言っている。

 ちなみに備中赤澤家で実在する可能性が高い初代と言っていい赤澤兵庫助宗照は野洲家当主で鴨山城に拠っていた細川通政(満国の玄孫)に仕え、鴨山城の支城である森本松山城(現倉敷市玉島柏島)の城主になったのだが、前述のとおり父・宗春は桂川原で戦死し、その主君である通政は出雲の尼子晴久に圧迫され、ついに浅口の所領を放棄し、もうひとつの所領の伊予宇摩郡へ逃亡する。その時の宗照の行動は不明だが、おそらくは玉島に残ったのではないか。それは、伊予川之江城にいた次代の細川通薫(みちただ・通政の甥)が、1559年に海を渡り、青佐山城(現浅口市寄島町)を修築して入城した時、その通薫を備中で迎える家臣団の中に、赤澤氏の名がみえるからである。ただ、この通政の逃亡から通薫の復帰まで20数年間が経っているため、もしかすれば当主は2代目の兵庫助宗榮になっていたかもしれない。しかし、「玉島地方史 大田茂弥著」によると、宗照は、1570年に尼子の残党の秋上綱平が備中に侵攻してきたときに、毛利方として尼子勢を柏島で迎え撃ち、戦死した、となっている。これが正しければ、通薫を迎えた時もその後10年ほどの間も宗照は健在だったことになる。その子の宗榮と久助宗白は1592年に通薫の子・元通に従い朝鮮に渡り蔚山などで戦い、久助に至っては関ヶ原で西軍に属して戦い、激闘するも破れ、近江国膳所赤沢谷というところで、敵軍に囲まれ討ち死にしている。

 話は戻るが、初代と言われている宗照より前の時代に、応仁年間(1467~69年)に細川氏に仕えて森本松山城を築いたとされる赤澤修理亮がいる。この赤澤修理亮が、宗照の先祖に当たる人物かもしれない。「浅口郡誌」によれば、細川家の家老級の赤澤氏は2氏(いずれも150石)あり、赤澤修理亮と赤澤兵庫助となっている。これは、天文年間(1532-55)中のことであり、応仁の時から60年ほど経っており、先の森本松山城を築いた修理亮家が二つに分かれたとも考えられる。ちなみにここにでてくる「赤澤兵庫助」が宗照ではないかと推測される。

 また、修理亮家も活躍していたようで、「備中誌」によれば、備後守護神辺城主・山名氏政の配下だった備中正霊山城城主・藤井皓玄が毛利氏に神辺城を落とされて、浅口郡大島村に逃げ延びてきたのを討った人物として、細川通薫家臣・赤澤修理亮の名がみえる。ちなみにこの年は永禄12年(1570年)に当たり、織田信長が齋藤竜興を下して稲葉山城を奪取した年であり、応仁年間の赤澤修理亮から言えば直系の子孫なのだろう。この年は、先述した尼子の残党が備中に侵入した年にあたり、皓玄もそれに呼応した形で毛利方の神辺城を奪回したものの、その後敗北し、大島村まで逃げ延びてきたものである。

 大局的にみれば、終始毛利家に属していた赤澤家の仕えた細川野洲家は、関ヶ原までは備中南部で勢を誇っていたが、戦後、毛利家が防長2カ国に減封されるに及んでは、細川家も所領を失い、西国に落ちて行った。時の当主・細川(浅口)元通は長府にわずかに所領を与えられたが、当然すべての旧臣を養うことは出来なくなった。

 赤澤家も、この西国へ落ちて行った細川家に従ったものも数家いたが、多くは旧領地で帰農し歴史舞台から姿を消した。

 その土着した赤澤家は、関ヶ原後の徳川の残党狩りを避けるために、一時期姓を畑(はた)などと変えていたが、後に江戸治政になって天下が安定してからは元の赤澤姓に戻している。

 

 

② 佐々木氏一族としての赤澤氏

 宇多源氏佐々木氏一族として、備中に勢力を持っていたという説。

これには異説が多々あり、信憑性に欠ける部分はかなりあるが、進めていく。今まで赤澤氏は清和源氏の系列に属するとしてきたが、根本的にそれは誤りで宇多源氏を祖とするという。清和源氏と違う流派で別に宇多源氏赤澤氏が存在していたという考え方もあるが、そう考えた場合、戦国期の備中南部で勢を誇っていた赤澤氏が二重の先祖を持つことになってしまうので少し現実味は乏しい。

 ちなみに、佐々木氏一族であったと仮定すれば、どういった経緯になるかと考えると、鎌倉時代までさかのぼり、源平合戦の藤戸合戦で功を上げた佐々木盛綱が児島を恩賞として受け、その子孫が備前に勢力を張り、その一族の赤澤氏が備中まで進出し、その領地に城を築き、室町~戦国期には支配者である備中守護の細川氏に所属した、と仮定される。南北朝時代は、近江佐々木氏は足利方として活躍しており、備前佐々木党も足利方として参陣し、その恩賞として備中に領土を得、そして、その後備中守護として赴任してきた細川氏にそのまま仕えたと考えることもできる。しかし、佐々木流赤澤氏がすんなりと新しく赴任した清和源氏細川氏に帰順したのかどうかも何とも言えない。さらに戦国期では、東の守りは備前の宇喜多氏等からの防衛線となっており最重要拠点と思われ、一族に近い信頼できる重臣を置く方が自然と思われるため佐々木流赤澤氏はこの角度から見れば仮説的には弱いような気もする。

 しかし、また話が振り出しに戻ってしまうが、我が家に伝えられている家系図(といっても、私の高祖父くらいまでしか詳細に書かれておらず、なおかつ、写ししか見たことがないので資料として出していいかも微妙だが・・・)によれば、家系図の一番上に出てくるのは「宇多天皇第九皇子敦實親王」と敢然と書かれており、源雅信から森本松山城主赤澤兵庫頭宗栄へ脈々と系譜はつづられているが、信憑性についてはかなりあやしいものと思われる。赤澤猛氏の「赤澤氏のあゆみ」によれば、この宇多源氏説の根拠となる資料は、乙島にある常照院にある石碑しか今のところ発見されていない、とされている。わが祖先のこの家系図の作者(実は祖父)が、この常照院と関係あるかどうかはわからないが、その影響から「宇多源氏」だという解釈をしたという可能性もある。

 

③ 阿波守護小笠原氏一族としての流入

 室町期には、清和源氏の一族は各地で栄えており、小笠原氏もその一族として各地の守護を歴任していた。そのうちの阿波守護の職にあった小笠原氏の一族で板西城等を守っていた赤澤氏が、長曾我部氏の四国統一戦に敗れ、備中に逃亡し、そこに土着したもの。

 これは、讃岐に逃亡したとは記述されているが、備中に逃亡したとは文献には見えず、四国は危険だと思った一部の者が、讃岐から備中まで逃げたのではないかと仮定したに過ぎない。

 ちなみに、この阿波小笠原氏一族からは戦国期に畿内で勢力を誇った三好氏が出ている。

 

 

 

まとめ

 こうやって考えてみても、やはり細川家臣(あるいは中央から被官として派遣)として備中に入国し所領を持ったと考えるのが自然な流れには感じる。その時期が、細川満国が入国した時と同時なのか、またはそれ以後なのか、はたまたそれより以前なのか、という古文書はなく、いつ頃この国に来たのかという重要部分については未だ不明のままである。今後の資料の発見を待ちたいと思う。